瞳堂の月下独酌―blog―

瞳堂主人のブログです

久しぶりに、抹茶を飲んだ。
茶は福寿園、菓子は末富。美味かった。
今日の、日本文化の講演会のなかで、茶の湯をたしなむ人の数が激減しているという話があった。
どの世界も同じだろうが、高齢化が進み、上がどんどん死んでいく。次の世代は、育ってない。若者の関心は別のところにある。
生活の中に、これっぽっちも隙間が無いんだな。
価値観の多様化って言うより、ただのバラバラ。誰かが、何でもありの世の中にしちまったからな。
茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなる事と知るべし と利休百首にある。
でも、茶を飲みさえすればいいって事じゃない。
炭火をおこし、釜をかけて、湯をわかし、茶をたてるというプロセスの全てが、のむばかりなる事につながって初めて、茶の湯になるんだろう。
今じゃ、炭火どころか、裸火が生活の中から、姿を消そうとしている。茶筅もないし、急須の無い家もあるらしい。かろうじて茶をのむと言えば、ペットボトルだ。
茶の湯を普及するために、どんなに知恵をしぼってもおっつかない。生活そのものを、先ず変えなければ。
たとえ茶の湯の稽古をしても、家に帰ったらこの生活なんだから。
庭に、茶室を作れって話でも、茶筅を買えって事でもない。
なにしろ、月を見ることだ。五感を働かせてみることだ。そして、ゆったりと暮らすことだ。
逆のように、思われるかもしれないが、そこからしか、茶の湯は始まんないんじゃないかな。